musician's talk ウクレレを愛するミュージシャンへのインタビュー
gray-dot
Vol.1 バスの中の忘れもの。

sekiguchi

父の唯一の願いだった、私がハワイアンを演奏すること

――エディーさん、今この本を読んでいるところです。(『Hawaiian Son - The Life and Music of Eddie Kamae』を見せる)
「それはいい。内容はどうだい?」

 
トレードマークであるパラカチェックのシャツで現れたエディー。この柄はプランテーション時代にハワイの労働者たちが愛用したもの。  
――興味深い話がたくさんです。
「その本の中には書いていないが、昔日本に行ったことがあるんだ。近所に住んでいた日系人の友人に誘われ、日本でレコーディングをすることになったんだ。日本に着いて最初の印象は、笑顔の人がいないことだった。スマイルを顔に浮かべている日本人は、友人のその彼だけ。見つけるのが簡単でよかったけどな。日本に着いてすぐにスタジオ入りしてレコーディングを済ませると、夜の街に誘われた。あるナイトクラブに連れて行かれたんだ。そこではミュージシャンの生演奏があってね、そこで演奏しろって言うんだ。レコーディングしたばかりの曲をウクレレで演奏したよ。そうしたら観客から大喝采を受けた。もう1曲やれって言うから演奏した。当時はまだ歌を歌っていなかったから、下を向いてウクレレを弾いただけだったけどな。あのころは歌うなんてはずかしくてできなかった。なつかしい思い出だ」

――シンガーとして歌うようになったきっかけは何だったのですか?
「私の師(ハワイ語辞書編纂者でクムフラだったメアリー・カヴェナ・プクイ女史)がある日、こう言ったんだ。『歌を歌いなさい、女性のために』。彼女の言うことを聞いて歌い始めたんだ。そもそも私はハワイアン・ソングを歌うどころか、自分のウクレレでハワイアン・ミュージックを演奏することさえしていなかった。ハワイアン・ミュージックは私の音楽ではなかったんだ。ラテンやスパニッシュ、ジャズに傾倒していたからね、ハワイアンは単純で退屈だと思っていた。しかし、父はハワイアンを愛していて、私にもやっぱりハワイアンを演奏してほしいと思っていたんだ。昔一度だけそれを口にしたことがあって、ずっとそのことは心に残っていた。そして、ある日父が死んだ。彼の唯一の願いだった、私がハワイアンを演奏すること、その願いにこたえたいという思いが強くなってね、50年代の後半にやっとハワイアン・ミュージックに取り掛かることにしたんだ。ハワイの古い歌を掘り起こすリサーチを始めたのはその頃だ」

――ではあなたとウクレレとの出会いについて教えてください。
「私の兄がバス・ドライバーでね、ある日バスの忘れ物だと言ってウクレレを持って帰ってきた。それがウクレレとの出会いだ。15歳だった。それからウクレレという楽器にのめり込んだよ」


――最初に買った自分のウクレレは何でしたか?
「マーティン・ウクレレだ。当時は15ドルだった。父にお金をもらって買いに行った。常にウクレレを持って、ラジオを聴きながらいつもウクレレを弾いていた。もうひとりの兄はウクレレでハワイアンを弾けたから、基本はその兄から習った。あとはもう独学で毎日毎日弾き続けた。ミュージック・ストアに行って、楽譜を買ってきてそれを見ながら曲を覚えたりな。私はどんどんウクレレがうまくなっていった。ある日父はそんな私を連れて、タクシー・スタンドに行った。ホノルルのダウンタウンにあるチャーリー・タクシーのだ。そこでは毎週金曜日と土曜日にミュージシャンが集まってジャム・セッションが行われていた。父に連れられていった私が、そこでステージに立つミュージシャンにウクレレを見せると、『こっちに来て演奏しろ』と言う。私はステージに立って初めて人前で演奏をした。観客が拍手とともにチップをステージに投げるんだ。そのお金を拾って、ミュージシャンは私のポケットに詰め込んでくれた。あれはいい気分だったな。父もとても嬉しそうだった。それが私の初ステージだった」





















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